どうも、木村(@kimu3_slime)です。
算数や数学では、きまりやルールといった考え方が見られます。
これは日常的な意味での「守るべきもの」としてのルールと違う部分があるなと思ったので、そのことについて書いてみます。
算数、数学におけるルールとは
小学校の算数では、計算のきまり、計算の順序の取り決めを学びます。例えば、足し算より掛け算を先に計算する、といったルールを学ぶわけです。
算数や数学におけるルール、決まりごとは、広い意味での「ルール」と違った意味合いがあるのではないかな、と思っています。
例えば、「ルールは守るべきものである」という言い回しがあります。このときのルールは、道徳や組織の規則、法律といった意味合いのものでしょう。社会の秩序のために、守るべきもの、といったニュアンスがあるわけです。
算数や数学におけるルールは、定義や表記法と呼ばれるものです。
それは道徳や法律よりは、スポーツやゲームのルールに似ています。
例えばサッカーでは、「ボールに手で触れてはいけない」というルールがあります。このルールは、ボールに手で触れることが社会悪であることを意味するわけではなく、サッカーというスポーツを成り立たせるための取り決めです。サッカーに参加する人は、そのルールを守ることで、同じゲームに参加することができるわけです。もし、「ボールに足で触れてはいけない」というルールを独自に持ち込んだら、それはもはやサッカーではありません。
スポーツにおいてルールを知らなければ試合ができないのと同様に、数学においてもルールを知らなければ、文字通り話になりません。そこでは、ルールを知らないことや守らないことは、別に悪いことではないと僕は思います。ただ、それでは人々が培ってきた数学というゲームに参加できない、ということなのです。
だから、算数や数学のルールを知り、学ぶことになるわけでしょう。そのことを、「算数や数学のルールを守るべき」という風には、僕はあまり言いたくありません。別に参加しなくても良いのですが、一緒に遊ぶならルールを知ると良いよ、という提案をしたいですね。
ルールの恣意性
子どもの頃に嫌だった大人の言葉のひとつに、「ルールはルールなんだから、そうなっている理由なんてない、黙って覚えなさい」というものがあります。言っている内容はあながち間違っていないと思いますが、言い方というものがあるでしょうよ、と。
広い意味でのルール、人間の世界の決まりというものは、納得できるものもあれば、そうでないものもあります。たとえ納得できなくても、罰則があるようなものは守らざるを得ないことがあるでしょう。
サッカーのルールで言えば、別に「手を使ってはならない」というルールを採用しなければならない必然的な理由はないのです。ただ、そういうルールでゲームをしたら面白くて、人々の間で流行っていった、ということでしょう。
算数や数学のルールにも、そうするべき必然的な理由がはっきりとしないないものがあります。例えば、計算の優先順位がそうです。別にどちらを優先しても数学自体は成り立つのですが、普通は掛け算を優先するルールが採用されています。
算数や数学のルール、定義は、基本的には人間が決めた恣意的なものです。それは議論の出発点に過ぎません。
例えば、古代ギリシャの数学、ユークリッドの「原論」では、「点とは部分をもたないものである」という定義をしています。一旦、点とは「そういうものである」と決めた上で、線や図形というものを組み立てていくわけです。それを点と呼ばなければならない理由はありませんが、仮に「点とは部分をもたないもの」と決めて、話を進めていきます。
数字を\(1,2,3,\dots \)とアラビア数字で表さなければならない理由はなく、漢数字\(一、二、三、四\)を使っても別に良いのです。どんなルールを採用するかということは、本来自由さがあります。ただ、多くの人が使っているルールに合わせたほうが、同じ話ができる人が増えるので、学校では何かしらのルールに合わせることになるでしょう。
例えば、小学校や中学校では、直角の角度を\(360\)度と表します。が、高校数学以降は、弧度法を使って\(\frac{\pi}{2}\)ラジアンと表す機会が増えるでしょう。別にどちらで書いても、間違いではない(数学的な間違いを生むわけではない)のです。ただ、使いみちや目的の違いによって、違う表現方法が採用されています。
参考:ラジアン(弧度法)を学ぶのはなぜ? 三角関数の微分を単純化
「数学ガール」著者の結城浩さんは、「ルールは便宜上定めたもの」という言い方をしていますね。
結城が知っている、数学が得意な人の特徴。
・ルールを守るのはやぶさかではない。
・ルールの境界(限界)を理解しようと思う。
・一度定めたルールを適当な理由で変えると怒る。
・ルールは便宜上定めたものだとよく理解していて、だからこそ(適切な理由がない限り)厳密に守ろうとする。— 結城浩 (@hyuki) March 9, 2015
特に小学校の算数・数学では、「算数とはこうするべきとのやり方を覚えるもの」と教える先生や生徒もいるのではないでしょうか。例えば、文章題の掛け算は一定の順序で書かなければならない、筆算では定規を使わなければならない、などなど。教師の教えた通りに答えなければバツなんだ、という意見もよく見かけます。学問的・数学的な正しさについて考え、それを大切にしてほしいな、と思いますが。
ルールを設定すること自体は悪くないと思いますが、明示的でないルールで採点したり、小学校でしか通じない独自でローカルなものを使うのは、理不尽でしょう。点数のためにルールに暫定的に従うのも良いですし、守りたくないと思っても気にすることはないと思ってます。
参考:「掛け算の順序」「×、÷ の書き順」、小学校算数のあきれた規則 – 講談社
数学でどんな議論をしたいか、どんな定義を採用するかという部分には、恣意的な部分があります。名前の付け方や表記法が典型です。
だからといって、答えがなんでもアリにはならないことに注意しましょう。数学では、その定義に従って、段階を踏んで論理的に導かれる結果のみを信頼する、という考え方があります。計算の答えや論証の結果は、人為によらず定まるのです。ただし、答えは1つですが(そうなるような問題設定を考えるので)、そこに至る手順、回答には自由があります。
数学におけるルールや定義は、「こうしなければならない」といったものでなく、「仮にこう出発するならば、必ずこういう結果が導かれる」といった性質のものになっているわけですね。
以上、算数や数学におけるルールとは何か、守るべきものなのか、について書いてきました。
数学は、「僕たちが仮にこう話を始めるならば、次のことが結果として導かれる」という積み重ねであると気づけたのは、僕は大学入ってからだったな。この記事が、小学校や中学校、高校などの段階で、算数や数学におけるルールについての考え方を深めるきっかけになったら嬉しいです。
木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。