どうも、木村(@kimu3_slime)です。
今回は、中学や高校における数学の宿題、特に多すぎる宿題の話をしようと思います。
結論から言えば、宿題によって数学が嫌いになるくらいなら、宿題をやらずに数学を好きでいる方が良い、という話です。
中学生高校生が勉強嫌い・できなくなる要因として、(過度な)宿題をやらされていることがあると思ってる。内申点という制度があるから、親もやれと言ったりする。
作業のように宿題をこなす習慣は、学ぶことの楽しさから遠ざかっていく。楽しくないのに、勉強ができるようになる人はほとんどいない。— 木村すらいむ (@kimu3_slime) December 27, 2020
どういうものが宿題と呼ばれるか
宿題の量や内容は、学校や地域によって違います。
僕は群馬県の出身です。(中学受験をせず)家から近い公立の中学校に通い、高校受験を経て県立の高校へ進学しました。高校は市内では学力のある方の人が集まり、進学校を謳っていた学校(自称進学校)です。
中学校では、教科書に連動したワークや問題集と呼ばれる本が学校によって指定されます。それの「何ページから何ページまでにノートに書いて提出して」というタイプの宿題です。
高校では、数学の問題集としてはチャート式参考書(黄チャート)が指定されていました。4STEPやサクシードも有名ですね。こちらも、宿題としては「何ページをやって提出せよ」という形式でした。別に問題集自体は悪くありませんでしたが、問題は使い方です。
数学だけではなく、国語、英語、理科、社会に関しても、同様の宿題が課されます。
都内の有名な中高一貫校出身の友達に話を聞くと、ワークやチャート式という言葉を耳にしたことがないと言い、僕は驚きました。学校では教科書とプリントを使い、宿題といっても提出しなければならないものはほぼないそうです。宿題は、教科書の問題を指定し、予習のためにやっておいてと言われ、次の授業で当てて答えてもらう形式。できなくてもいいそうです。授業料が高いこともあり先生の質が良い、受験勉強に関することは塾でサポートしてもらう人が多い……といった事情もあるのでしょう。
しかし僕のいた学校では、宿題と言えば「問題集を大量にやらされるもの」でした。そういう学校は日本において珍しくなく、ありふれたものだと思います。そのイメージでの宿題について話します。
終わらない宿題をどうするか
中学生や高校生の同級生を見ていて、宿題はしんどいものだと言う人は少なくありません。
それは当然です。部活動をやった上で宿題を「こなす」のには時間が足りません。さらには、受験のために塾へ通う生徒もいます。昼は学校、午後は部活、夜は塾とやっていたら、一体どこに宿題をやる時間があるのでしょうか?
僕は部活に参加せず、塾にも通わず、かといって宿題も全くやらない常識知らずな生徒でした(笑)。無意味な宿題をやるくらいなら、怒られてでもゲームをした方が良いと思ったので。それでも、どうやら多くの生徒は宿題をやっているのです。
では、時間がない中でどうやって宿題を終わらせるのか? ……答えを書き写して提出するのです。
僕は最初それを信じられないと思っていましたが、中学でも高校でもそういうことをしている生徒はいました。悲しいことに、勉強のできる子は宿題を普通に解き、できない子は書き写す傾向にありました。そうせざるを得ないのでしょうが……。
Yahoo!知恵袋を探せば、「このワークの宿題自力で全て解いてる奴とかみたことない」という投稿があります。答えを見ずに早く終わらせる方法を求めても、とりあえず埋めてくださいという答えが返ってきたりします。
課題に意味がないとはわかっているが、出さないと怒られるからということで、「裏技」として書き写す方法を紹介したブログすらあります。
中学生高校生の当時ではなく、今になってもこんな宿題のあり方はどうかしていると思います。
アメリカにおける研究ですが、”宿題の平均的な量と学業成績との間には何の相関も見出されなかった”という話があります。宿題をたくさんやれば、それだけ成績がよくなるものとは限らないのです。
参考:タイラー・コーエン 「宿題の量と学力との間にはどんな関係がある?」
宿題をやれと言われる理由
僕は宿題そのものに意味がないとは思っていません。
小学校における漢字の書き取りや、算数の計算は、ある程度までは数をこなして慣れなければならないでしょう。しかし、中学校や高校における多すぎる宿題は、生徒に良くない影響を与えると思っています。
少なくとも、書き写すだけの宿題は、教科の理解を深めるものにはなりにくいでしょう。特に回答の暗記がほぼ通用しない数学は、その傾向が強いです。書き写しても理解は深まらない……何の意味があるのだろう……そんなことは、宿題をやっている生徒自身もおそらくわかっているのではないでしょうか。
わからないから写す、写すからできるようにならない、できるようにならないから嫌い……の負のループが生まれます。宿題に取り組むことで勉強をよくできるようになった、という生徒を見たことがありません。もともと良くできる生徒だけが苦労なく宿題を終わらせ、半数くらいの人は理解できず苦しみながら宿題をやっていた印象です。
では、どうして生徒は書き写してまで宿題をやるのでしょうか。先生や親が宿題をやれと言うからです。
ここで、僕が常識知らずの人間であることを断っておきます。なので、話半分で聞いてください。先生や親といった、「まともな人」の考えを聞くこと、「常識」を知ることは、「社会」で生きていく上では大事です。
子どもが「こんな宿題に何の意味があるのか?」という疑問を持ったとしても、「どうして宿題やらないの? 宿題はやるべきだよ」と答える親もいるでしょう。社交術(道徳)、職業訓練として、年長者の言うことに従っておくのは有効です。
……とはいえ、それは多すぎる宿題を子どもがやることの意味の正当化にはなりません。なぜ宿題を大量に出すのでしょうか。ここからは僕の見解が強くなります。
表向きには、生徒の勉強への理解を深めてほしいからです。宿題をやれば勉強への理解が深まると思っているのです(じゃあ、宿題が理解できない子のサポートしてるの?、出すだけで終わってない?という疑問がありますが…)。
もうひとつは、生徒の成績評価のため、内申点・通知表の存在です。宿題をやらなければ、良い内申点がもらえず、良い高校や大学への推薦入試ができなくなるよ……という動機づけです。これがあるから、無意味に感じたとしても生徒は宿題をやるし、親も子どもに宿題をやらせるのでしょう。(この制度が教師の権威性を生み出している面があります。穿った見方をすれば、生徒を「勉強ができない人」として教師に従わせるために、大量の宿題を出している面があるのではないでしょうか。)
僕は授業中寝ていて、宿題も出しませんでしたが、テストの成績は悪くないタイプでした。したがって内申点は悪く、高校も大学もペーパーテストの一般入試です。宿題や内申点は無視しましたが、高校では定期試験や受験難易度的に学年トップの成績を残しています。
大量に出される宿題が残っている理由は、表向きは「勉強をやっている」ように見えるからでしょう。
実際は、勉強ができるようになることは主目的ではなく、子どもが勉強している姿を見て、先生や親が安心したいのではないでしょうか。僕は中学校の授業中に寝ていて先生に怒られましたが、それは僕が教科の理解についていけないからではなく、「なぜ私の話を聞かないのか」です。勉強しているふりをしろ、ということなのでしょうね。ノート、板書を取らせたがるのも同様です。
勉強をしている気になって時間を使うことと、勉強を理解するために自分のペースで取り組むこと、どちらが大事なのでしょうか?
高校に入ると、定期試験前の1周間、各教科の勉強時間を用紙に記入して提出しなさい、という習慣がありました。僕はウソをつくのは嫌いだったので、0時間で提出します。すると、少しは勉強しなさいと怒られました。テストの点数はそれほど悪くないにもかかわらず、です。
ただ時間をかければ勉強ができるようになるわけではないということは、ある程度勉強をした人なら共通見解でしょう。学問や自分の脳みそは、勉強に長時間向かい合っているという態度は評価してくれません。それを評価する人はいますが、それは長時間勤務を誇っているのと何が違うのでしょうか。(基本的に、長時間になれば集中力は切れて、学習効率は落ちます。学ぶことは単純作業ではないのです。疲労や睡眠不足は記憶にも悪いです。)
結局中学校や高校の先生は、生徒の成績(=宿題提出率や学習時間)を競い合っている面があり、だから僕のような生徒を叱るのでしょう。表向きは「勉強をするのはあなたのためだ」としながら。
あるいは、たくさん宿題をして長時間勉強をすることこそが、勉強のやり方である、と思っている先生や教師は少なくないのかもしれません。自分はそうやってきたんだから、生徒もそうべきであると。受験勉強の時期に「1日10時間くらい死ぬ気でやれ、死なないから」のようなことを言っていた先生がいました。受験戦争の時代に生まれた人は、こういう脅迫的な考え方をしているのだな、と僕は悲しい気持ちになっていましたが……。
勉強を嫌いになるくらいなら、宿題をやらない方が良い
僕は学校の先生方を責め立てたいわけではありません。そんなことをしても宿題はなくならないし、勉強をできるようになるわけでもないからです。
教科の指導に学校行事、部活まで担当していたら、先生だって長時間労働で、生徒の勉強のことを考える余裕はないでしょう。大人数教育には限界があります。しかし教育制度や予算はすぐには良くなりません。
とはいえ生徒の立場からすれば、過剰な宿題は勉強への意欲を削ぎます。僕は宿題をこなして評価されることよりも、勉強を好きでいられることの方が、学校で身につけるべきことではないかと思っています。
ついていけない宿題は、やらないほうが良い。答えを写すだけの無意味な作業に慣れていくと、数学や勉強すべてが無意味に見えて、嫌いになっていってしまいます。本質的に学ぶことが嫌いなわけではないのに、作業的な宿題が考えない習慣を作ってしまう可能性があるのです。そうなるくらいなら、やらない方が良いのではないでしょうか。
宿題を全否定はしません。ただし、学校は宿題を出すならば、もっと宿題のサポートをした方が良いと思っています。そのためには量を絞り、宿題と授業を関連させる必要があるでしょう。しかし、実際の公立学校でそれは期待できないかもしれません……。となると、良い塾や私立学校に投資できる家の子は有利になります。子どもの資質は生まれによらないと僕は信じていますが、勉強の得意不得意、好き嫌いは環境に大きく依存していると、経験的に思わざるを得ないです。
宿題をやらなくていいということは、勉強に意味がないと言っているわけではありません。
「数学が嫌い」という学生に対し、「文系の大学に進学すれば数学は使わない」といったような回答をするYahoo!知恵袋の投稿があります。人文だろうが社会科学だろう自然科学だろうが、(高校レベルの)数学は基本的なツールです。統計学しかり。中学、高校、大学生の時点で「勉強しなくていい」と思ってしまうのは、非常にもったいないです。
ただし、宿題をきっかけに数学や勉強が嫌いになってしまう気持ちはわかります。むしろあれをまともにやっていて、勉強が嫌いにならない方が変なのではないか、くらいに思ってます。
大事なのは、課題ができるできないに限らず、興味を持って学ぼうという気持ちではないでしょうか。
僕はその気持ちがあったから、大学受験をして数学を学ぼうと思い、結果として1年間の勉強で難関大学に合格しました。その後も、興味を持って自主的に数学を学び続けています。
大学に入ってできた友達は、勉強のできる人ばかりでしたが、共通しているのは「勉強をやらされていない」ということです。(中学高校では、勉強が嫌いなのは当然、やらされているからやっている、できるやつは変だ、といった風潮もあったので、あまりの格差に絶望しました。環境によってこうも認識が違うのかと。)
中学校や高校の生徒を見ていても、真面目に勉強をやっている(やらされている)子は、真ん中くらいの成績(勉強の理解)にしかなりません。優秀な子は、宿題に関係なく、自分から勉強をやっています。「好きこそものの上手なれ」ですね。
スポーツやゲームでも同じで、やらされている人で一流の実力を持つ人を見たことがありません。好きで自分からやっている人に、言われたことを真面目にこなす人が追いつくわけがない。
「苦手だからこそ、宿題をやらせなければならないのでは?」と思う教師や大人もいるでしょう。そのやり方で、勉強はできるようになったのか聞きかえしてみたいものですね。強制することによって、より勉強が嫌いになって、学ぶことからリタイアしてしまう人について、思いを馳せてほしいものです。子どもを怒ったり叱ったりすれば、「仕方なくやっている人」はできあがりますが、自発的にできるようになった人は見たことがないです。
勉強を嫌いにならずにいること、物事を「わかろうとする」気持ちは、一生の宝になります。好きでいれば、結果的に向かい合う時間は自然と増えて、いずれ勉強はできるようになっていくのです。
先生や大人だって、ひとりの人間ですから、得意不得意のばらつきや限界があります。言っていることが信じるに値するかどうかは、自分が大人になるにつれ自分で見極めていった方が良いでしょう。もし学校の宿題が多かったら、それに合わせすぎず、自分のペースでの理解を大事にしてみてください。
木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。
数研出版 (2019-01-24T00:00:01Z)
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